渡部在哉

 

渡部在哉(ありちか)

『庄内金工名譜』には、「称儀兵衛。初メ珍久門。後、初代安親門。寛保二年四月死。享年八十二歳。清成・宜時同時ノ人」とあって、鶴岡市与力町の大昌寺に過去帳が現存する。
それによれば彼の死は寛保二年(一七四二)四月四日で、安親よりも三年早く死んでおり、年齢的にも十歳の年長である。彼の戒名は不山知著信士といい、過去帳によれば、在哉の祖父が、桃庵良見居士、七日町儀平父宝永二年(一七〇五)十二月廿一日、および彼の縁者であろう椿宗貞寿信士銀町儀平内宝永五子年十二月廿三日とあって、この足かけ四ヶ年間に七日町から銀町(しろがねまち)に移住したことがわかる。
在哉の父は、月心宗秋信士銀町渡辺儀平享保十八年(一七三三)九月廿八日に死亡している。銀町は文字通り金工や柄巻師、鞘師など刀剣関係の職人町であるから、ここに移った在哉の父も恐らく金工であったであろう。この過去帳に一は渡部、他に渡辺と「べ」の字をちがえているが、当時はこの位のことは一向おかまいなかったと思われ、安親が在哉に送った手紙四通の内、三通は渡部であり、一通は渡辺となっていることも同様である。なお庄内地方では、「渡部」も「渡辺」もともに同様に「わたなべ」と訓んでいる。
在哉の家は鈴木清成の隣家であったという。在哉は、珍久門下としては安親につぐ上手であり、しかも安親が江戸に出て大成したにもかかわらず、終にその一生を庄内に過した薄幸の人であり、安親はしばしば書簡を送って上京をすすめており、遂に動き得ないと知るや、下絵を贈ったり、作品についての批評を与えたりして、この在哉を励まし指導している。名譜に「後安親門」とあるのはこの間のことを言うものであろうが、恐らく正式に入門したものではないであろう。
長岡氏の鈴木家記録によれば、在哉は非常に貧乏な生活を続けたらしく、しかも人物が立派であり、いろいろな金銭的の迷惑はその作物によって支払うなど、近所の人達からも指弾を受けるようなことがなかったという。
その作風は最も安親に近似しているが、安親に見られないのは肌物にあって、特にいわゆる鉄骨を頻りにあらわした作鐔は、正阿弥派の伝統をゆくものであり、古香があり、加えるに加賀象嵌風の平象嵌は見事であり、糸透も安親には見られず、正阿弥伝兵衛などの巧みさを示している。縁頭には、初期安親風の奈良風を露骨に現わしたものがあるが、一見安親風に見えて甲乙がないが、違うところは必ず僅かながらも平象嵌がある。
胡蝶図 銘 在哉
胡蝶図 銘 在哉

河童図縁頭 銘 在哉

河童図縁頭 銘 在哉

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