後藤家各代

 

初代 後藤祐乗(正奥)

後藤家の初代祐乗は、日本彫物の元祖といわれ、また、古今独歩の鑽師としてあまりにも有名であり、刀剣と小道具に興味をもっているものであれば、その名を知らないものはほとんどいないであろう。しかしながら、その伝記を調査してみると、不明なところが多く、また、わかっていても、現代の常識では、とても理解のできそうもない記録であったり、まったくの創りごととしか思われない記録まで現存している。だからといって、これらの記録を、すべて抹殺してしまうことも、とうていできないことであろう。ということは、伝記を作成するにあたって、粉飾がつきものの時代に記録が整理され、そしてまとめられたわけであるから、今日、われわれがその記録を解釈するためには、よくよく熟読玩味し、これを正しくとらえてこそ、古記録が生きてくるわけである。この意味において、ひとり祐乗のみが当時の金工師であったわけではなく、他にもまた、たくさんの金工師がいて、太刀とか打刀等の金具を造っていたのももちろんである。彼ら金具師は身分が低く、単なる職人として扱われていたために、系図もなければ、その記録も残されていないだけの話である。
稲葉通龍著の『装剣奇賞』には「凡彫物のはじめは、後藤祐乗を祖とす、故にこれを元祖と称せり、しかるに、祐乗より前に、市川彦助の某ありて、整三本をもてはじめて彫物を工るよしいい伝うれども、世すでに、祐乗をもって元祖と称すれば、復論を容べからず」と記録し、祐乗の元祖と呼ばれたのは、名工の余徳というべしとも記録している。

初代祐乗は、永享十二年(一四四○)に生れ、永正九年(一五一二)に七十三歳の高齢で没したことになる。常徳寺の過去帳も、永正九年(一五一二)七十三歳没となっているから、この点については、まず間違いはないであろう。そして祐乗はこの間に、新技術を開発し、また数々の名作をものにして、東山文化の一翼を担い、彫金工として、足利将軍家に不動の地位を築き上げ、七十三歳の生涯を閉じたわけである。

倶利伽羅龍図二所物 銘 祐乗作 顕乗(花押)

倶利伽羅龍図二所物 銘 祐乗作 顕乗(花押)(徳乗折紙付)

二代 後藤宗乗 (武光)

宗乗は、初代祐乗の次男で、俗名を二郎、諱は武光といい、父の業を継いで、足利将軍家に仕え、四十歳のとき剃髪して宗乗といった。宗家に伝わっている正統系図によれば、長享元年(一四八七)の生れで、永禄七年(一五六四)八月六日(勘兵衛家の系図では天文七年(一五三八)八月六日となっており誤記と思われる)七十八歳で没し、京都の蓮台寺石蔵坊に葬られたという。妻の妙宗は、元亀二年(一五七一)五月十三日に没している。作風はこの時代の後藤家の作は、目貫と弁がほとんどであり、技術的には、父・祐乗の作風を受継いでいる。現存品を調査してみると、宗乗の作は、肉取りにおいて、父・祐乗よりも低くなっており、彩色のやりかたは「ウットリ」方式である。
金目貫の裏は薄金出しであり、赤銅目貫の場合は、金目貫よりも厚くなるのが普通である。目貫裏の根は、陰陽根が原則であるが、陰陽根でないものもある。いずれにしても、笄・目貫とも、祐乗よりはいく分大きめになるのが、その特徴であろう。龍・獅子については、父祐乗の手法を受けついでいるが、肉取りにおいても、品位においても、技術が若干劣る。

狗児図三所物 銘 紋宗乗 光考(花押)(廉乗折紙付)

狗児図三所物 銘 紋宗乗 光考(花押)(廉乗折紙付)

三代 後藤乗真(吉久)

乗真は、二代宗乗の長男で、俗名を二郎、諱は吉久、のち源四郎治光といった。
勘兵衛家の記録によると、乗真は、将軍・足利義晴、義輝の二公に仕えたが、享禄元年(一五二六)五月五日、兇賊が柳営を襲撃したとき、その兇賊を相手に奮戦してこれを退散させている。その日がたまたま五月五日で、菖蒲の節句であったから将軍は、家紋にせよといって、女子、菖蒲、筧釣を給わり、勇戦は末代まで不朽なりと賞賛している。
晩年には、所領坂本の地を江州の浅井亮政が襲撃するとの知らせを受け、乗真は急ぎ駆けつけて防戦に努めたが、その夜、浅井軍の夜襲に逢って、戦況が不利となり、湖上に引退したが、浅井軍の追撃が激しく、今はこれまでと、「五とせあまり、ただかりそめの雨やどり はれてぞかえる、もとのふるさと」の辞世を残し、流れ矢にあたって湖水に落ち、遂に討死をした。
このとき、十七歳の従者・金子市若なる者に、長刀と数珠を渡し、都に持帰って、我が妻子に渡すように依頼したという。享年五十一歳。四子があって、嫡子は小一郎光家(光乗)、次男は孫二郎光嗣(元乗)、三男は小三郎吉高(祐徳)、長女は狩野法眼元信に嫁している。妻の妙真は狩野祐清正信女で、天正六年(一五七八)十二月九日に没した。作風はこの時代も、その製作範囲は、目貫と笄がほとんどであり、小柄等は極めて少ない。また、乗真は武人であり、性質もいたって剛勇であったといわれている、したがって、その作風は覇気に富み、力強く、大振りのものが多い。

倶利伽羅龍図三所物 笄 無銘 乗真作(程乗折紙付) 小柄・目貫 無銘 程乗作(彫足し)

倶利伽羅龍図三所物 笄 無銘 乗真作(程乗折紙付) 小柄・目貫 無銘 程乗作(彫足し)

四代 後藤光乗(光家)

光乗は、三代目乗真吉久の嫡男で、享禄二年(一五二九)の生れである。俗名を小一郎、のち亀市、諱は光家といい、法眼に叙せられている。永禄八年(一五六五)には、乗真が書き遺した「定法之事」を、乗真の遺言として同苗一家に配布しており、これによると、一門の団結および、進むべき道から相互扶助にいたるまで、こと細かに書き記されている。そして光乗は、戦国の末期から桃山時代の終りまで、九十二年間も生存し、人の世のあらゆる面を目撃し、六代目栄乗が死んでから三年目の、元和六年(一六二〇)三月十四日にこの世を去っている。遺骸は京都の蓮台寺石蔵坊に葬られた。光乗には三子があり、嫡男の徳乗は五代目を相続し、次男の源七郎長乗は上後藤の祖となり、一女妙智は、慶長二年(一五九七)八月二十日に没している。光乗の作風は、父乗真の、力強く大振りなのに対して、いく分小振りであり、絵風のものが多く、如何にも図柄の勝れていることが特徴である。この時代も、笄と目貫が主であり、小柄は極めて少ない。また、初・二代にはあまり見られなかった武者とか人物の作が出現したことも、特徴の一つである。

許由・巣父図二所物 銘 光乗作 顕乗(花押)光信(花押)光昌(花押)

許由・巣父図二所物 銘 光乗作 顕乗(花押)光信(花押)光昌(花押)

五代 後藤徳乗(光基)

徳乗は、四代目光乗光家の嫡男で、天文十九年(一五五〇)の生れである。俗名を源次郎といい、のち四郎兵衛と改め、諱は光基とも正家ともいったという。
後藤家は、初代祐乗以来、足利将軍家に仕えて来たのであるが、四代光乗の時代になると、足利幕府も滅亡し、光乗・徳乗は、織田信長に仕えることになった。信長が天下の実権を握った天正九年(一五八一)四月十五日には、「分銅および大判役」を命ぜられており、徳乗は、父光乗とともに、無印の大判を造っている。文禄三年(一五九四)には、四十五歳で剃髪して徳乗と号し、嫡男の正光に四郎兵衛の名前を譲っている。
元和三年(一六一七)には、当主の栄乗が、光乗・徳乗に先だって、四十一歳の若さで病没し、栄乗の死後は、徳乗が宗家の代理をっとめるのであるが、その後、三男の顕乗に七代目を継がせ、栄乗の子光重が二十九歳になったときに、あらためてこの光重に宗家の八代目を継がせている。徳乗は、寛永八年(一六三一)十月十三日、八十二歳の高齢で死去し、京都の蓮台寺石蔵坊に葬られた。五男四女があり、嫡子は栄乗正光、次男は早世、三男は顕乗、四男は琢乗、五男休乗、長女は本阿弥光室の妻、次女は金座・後藤庄三郎光次の妻となり、三女は狩野大学助氏信の妻、四女は本阿弥光刹の妻となった。徳乗の子孫は追々分家して免許地に軒をならべて繁栄したが、これを下後藤と称している。徳乗の作風は、父光乗よりも多少大きめで、桃山時代という時代相を反映してか、豪華に出来ているものが割合に多い。この時代も目貫と作が主であるが、小柄も相当数増えてきており、三所物も鐔も存在している。

鯱図二所物 無銘 徳乗作

鯱図二所物 無銘 徳乗作

六代 後藤栄乗(正光)

栄乗は、五代目徳乗光基の嫡男で、天正五年(一五七七)の生れである。幼名を亀市、俗名を源四郎、諱は正房といった。文禄三年(一五九四)に家督を相続し、名を四郎兵衛正光と改め、後藤宗家の六代目となったのは、十八歳のときであった。慶長五年(一六00)関ヶ原合戦のあとは、天下の実権が徳川家のものとなり、翌慶長六年(一六0一)になると、伏見に銀座が設けられ、徳乗・栄乗父子は、家康の命によって大判金を製造している。秀吉生存中は、後藤家の手代・庄三郎光次が徳乗の名代として江戸に下り、徳川家の金銀貨幣の任にあたっていたが、関ヶ原合戦のあとは、徳乗の弟長乗が江戸に下り、家康に重用されるようになり、自然宗家の影は薄い存在となった。ところが長乗は、元来が無欲であったことと、性来病弱であったために、江戸での仕事は手代の庄三郎にまかせ、兄徳乗の子・栄乗正光をもって、嫡家の再建を幕府に願い出たのである。そして自身は京都に帰っている。「條々法度」の精神を重んじたためであろうか。
元和二年(一六一六)九月十九日、将軍秀忠から、改めて弐百五拾石の旧領をそのまま給わり、「分銅および大判役」を命ぜられ、別に江戸詰料二十人扶持も支給され、江戸に居を構えることになった。
しかし栄乗は、翌年の元和三年(一六一七)四月四日、四十一歳の若さで江戸で病没した。二男四女があったが、嫡子源四郎乗閑は早世し、次男は源七郎光重、長女の妙感と四女の妙浄は早世し、次女妙休は源兵衛家初代休乗光忠の妻となり、三女妙正は甚兵衛家初代昌乗光政の妻となっている。源七郎光重は、母とともに河内国松の花で別居していたが、兄源四郎の没後、後継者として引取られていたが、栄乗の没後は、徳乗がいったん宗家の代理を勤め、その後頭乗が七代目となって、光重を後見している。栄乗の作風は、父徳乗の作とあまり変らないが、一体に大振りになっている。物によっては乗真に近い程大振りなものもある。時代相の反映で、豪華に出来ていることは申すまでもないが、特に、武者とか人物の彫が巧みで、華麗である。

宇治川合戦図鐔 無銘 栄乗作

宇治川合戦図鐔 無銘 栄乗作

七代 後藤顕乗(正継)

顕乗は、五代目徳乗光基の三男で、天正十四年(一五八六)の生れである。幼名を寅市、俗名は源一郎、諱は光経といったが、後に別家の理兵衛家を起し、理兵衛正継と改名している。
元和三年(一六一七)兄の栄乗が、病気のため江戸において死去している。兄栄乗の嫡男、源四郎は慶長十六年(一六一二)に没しており、次男、源七郎はこのとき十八歳であったが、如何なる理由か祖父の徳乗がいったん宗家を預っている。その後顕乗が光重源七郎の後見役となり、宗家の七代目を相続することになった。そして頭乗は江戸に行き、宗家の代理としての業務を遂行し、寛永五年(一六二八)になると、宗家の八代目を光重に譲っている。また顕乗は、従弟の覚乗とともに加賀の前田家に招聘され、百五拾石の禄を給わり、隔年交替で金沢に行き、加賀金工隆盛の基礎を開いている。
八代目を相続した光重(即乗)も、三年後の寛永八年(一六三一)には、三十二歳の若さで没している。嫡男の源四郎(廉乗)は、このとき四歳の幼児であったので、顕乗は再び宗家を預り、寛永十三年(一六三六)には、わが子理兵衛光昌に宗家の九代目を相続させている。
寛文三年(一六六三)正月二十二日、七十八歳の高齢で没した。妻の妙幸は長乗の娘で、顕乗とは従妹にあたり、慶長十九年(一六一四)に没したために、妹の妙顕が後妻として入っている。五男一女があり、嫡男の宗圓は早世し、次男は程乗光昌、三男は寛乗光利(実際は狩野氏信の男で徳乗の外孫)で八郎兵衛家を設立、四男は股乗光富で七郎右衛門家を起し、その門から横谷宗珉父子が出ている。五男は仙乗光清で、太郎右衛門家の祖となり、光清の三男の源之丞光雄は宗家の十一代目を相続している。
顕乗は、祐・光・顕という、いわゆる後藤家三作のうちに選ばれているだけあって、その作風は力強く、龍・獅子等の肉取りには躍動感があり、何如にも手綺麗である。また、加納夏雄翁は顕乗の作を評して、後藤家中興の祖とし、古法に泥まず、武者彫刻においてはその妙を極め、胴詰りの傾向があるとし、それがかえって恰好よく見えるとしている。したがって、胴詰りであっても、恰好が悪ければ顕乗でないことになる。

鶴図三所物 銘 後藤顕乗(花押)

鶴図三所物 銘 後藤顕乗(花押)

八代 後藤即乗(光重)

即乗は、六代目栄乗正光の次男で、初め亀市、俗名は源七郎といい、慶長五年(一六00)に生れ、後藤宗家の八代目である。勘兵衛家の記録によれば、「其母故ありて河内国松の花という所に住居す。同所にて生長、十二歳の時兄乗閑早世せしにつき引取らる」とあるので、十二歳までは別居していたことになる。
元和三年(一六一七)四月四日、父栄乗が江戸で没したが、この時、源七郎(即乗)は十八歳になっていた。普通であればこの時に宗家の七代目を相続するはずであるが、如何なる理由によるものであろうか、源七郎(即乗)は、宗家の名乗りである四郎兵衛を襲名し、光重と改名はしているが、七代目は相続せず、祖父の徳乗が代理を勤めている。その後、元和九年(一六二三)頃には、叔父の顕乗が七代目を相続し、寛永二年(一六二五)になると即乗は、江戸詰めの命を受けて江戸に下り、本白銀町に住むことになった。そして寛永五年(一六二八)には、宗家の八代目を顕乗より引継いでいる。また、この年の十一月二日には、四男の亀市(廉乗)が生れている。即乗は薄幸であった。幼時は父と別居し、十八歳にして父と死別、長男、次男、三男は早世し、二十九歳のとき宗家を相続しているが、わずか三年で、寛永八年(一六三一)、祖父徳乗没後一ヶ月目の十一月十三日に、三十二歳の若さで病没した。亀市(廉乗)四歳のときである。即乗とは諡り名であり、六人の男子があった。長男、次男、三男はいずれも早世し、四男は源四郎光侶、五男は泰乗光尚で別家次左衛門家を設立し、六男の即清は、金座・後藤三右衛門の養子となっている。妻の清は、天和二年(一六八二)七十二歳で没し、浄徳院妙即日眼と諡号された。即乗が、宗家の当主としてその座にあったのは、寛永五年から寛永八年までで、僅か三年ほどでしかない。したがって、自身銘入りの作品は極めて少なく、加納夏雄翁も、「自分も未だ是を見たる事なし」としているところから、即乗自身銘は、如何に少ないかが思い知らされる。

這龍図小柄 銘 後藤光重(花押)

這龍図小柄 銘 後藤光重(花押)

九代 後藤程乗(光昌)

程乗は、七代目顕乗光継の次男で、慶長八年(一六0三)二月十九日の生れである。幼名は寅市、俗名は源一郎で、諱は光尹といったが、寛永元年(一六二四)、父の理兵衛が剃髪して顕乗と号したので、この時、理兵衛家の二代目を相続し、名を理兵衛光昌と改めた。二十二歳の時である。寛永八年(一六三一)宗家の当主・四郎兵衛光重が三十二歳の若さで病没し、後継者の源四郎(廉乗)が、四歳の幼児であったため、宗家を相続することが出来ず、光昌の父顕乗がいったん宗家を預り、後見することになった。寛永十三年(一六三六)になると、父に代って理兵衛光昌が宗家を預り、九代目を相続した。光昌三十四歳の時である。正保二年(一六四五)には、即乗の子源四郎に、宗家の名乗りである四郎兵衛を襲名させ、光侶と改名させている。このことについては、宗家の記録に「廉乗十八歳の時渡す」とあるから、ほぼ間違いはないものと思われる。
その後、正保三年(一六四六)に剃髪して鐘乗(金偏)と名乗っている。宗家の系図・程乗の項に「四十四歳の時法体」と記してあるし、正保三年(一六四六)四月七日付で、後藤理兵衛光昌(花押)の折紙と、同年九月七日付の後藤程乗(花押)の折紙があるところから、光昌はこの時、すなわち、正保三年四月七日から、正保三年九月七日までの間に法体となり、鐘乗(金偏)を名乗ったとみることができる。それから三年目の、慶安二年(一六四九)の折紙は程乗(不偏)に変っている。承応元年(一六五二)光侶が二十五歳になったとき、光昌は、宗家の十代目を引渡している。このことは、現存している折紙によっても確認されるところである。
また程乗は、覚乗の誘引によって加賀の前田家に仕え、三十人扶持を給せられている。覚乗の没後は、演乗が若年のため、その後見を仰付けられ、覚乗の禄高米三百俵を給せられ、程乗禄の三十人扶持は、演乗が受けることになった。寛文七年(一六六七)には幕府に仕え、百俵二十人扶持を支給され、法橋の位に進み、寛文十三年(一六七三)九月十三日、七十一歳で没した。程乗の時代になると、自身銘入りの作品が一段と多くなっており、その作風は、父顕乗に似て肉取りが幾分低く、作域の幅はかなり 広くなっている。

弓流し図小柄 無銘 程乗作

弓流し図小柄 無銘 程乗作

十代 後藤廉乗(光侶)

廉乗は八代目即乗光重の四男で、寛永五年(一六二八)十一月二日の生れである。幼名を亀市、俗名を源四郎といい、後藤宗家の十代目である。寛永八年(一六三一)亀市四歳の時、父の光重(即乗)が病死したので、祖父の弟にあたる顕乗が一時宗家を預っていたが、亀市が九歳のとき、顕乗の子理兵衛光昌が宗家の九代目を相続した。
宗家に伝わった記録によると、「廉乗十八歳のとき渡す」とあるから、源四郎(廉乗)は正保二年(一六四五)に、宗家の名乗りである四郎兵衛を襲名し、名を光侶と改めたものであろう。そして承応元年(一六五二)、光侶は二十五歳で、宗家の十代目を相続した。その後、明暦二年(一六五六)には、幕府の命によって江戸に勤務し、寛文二年(一六六二)には江戸定府を命ぜられて、正式に江戸に移住した。
また、天和三年(一六八三)五月には、剃髪して廉乗と号し、この時、嫡男の源四郎(光嘉)に、宗家当主の名乗りである四郎兵衛を譲っている。しかし、嫡男の四郎兵衛光嘉は宗家の十一代目を相続しないうちに、貞享元年(一六八四)四月十九日、二十五歳の若さで病没してしまった。貞享元年(一六八四)廉乗は、それまで部屋住みであった、別家・仙乗光清の三男・源之丞光雄を養子に迎え、後継者とした。光雄はこの時、名を四郎兵衛光寿と改めている。廉乗五十七歳、光寿二十一歳のときである。十六代目光晃の記録によれば、光寿は廉乗の娘とめあわせられたことになっている。その後十四年目の元禄十年(一六九七)七月二十八日、廉乗は、光寿に宗家の十一代目を譲り、京都に隠居している。そして、宝永五年(一七〇八)十二月二十三日、八十一歳の高齢で病没した。戒名は、光侶院廉乗日栄居士といい、江戸浅草橋場町にある、日蓮宗・妙高寺に埋葬された。
廉乗の折紙が発行された期間を調査してみると、承応元年(一六五二)から元禄十年(一六九七)までの四十五年間である。したがって、自身銘入りの製作年代も四十五年間であり、後藤各代の中にあっては、驚くべき長期にわたっている。

笹に海老図三所物 銘 後藤廉乗(花押)

笹に海老図三所物 銘 後藤廉乗(花押)

十一代 後藤通常(光寿)

通乗は別家仙乗光清の三男で、七代目頭乗の孫にあたり、寛文四年(一六六四)六月六日の生れである。俗名を源之丞、初名を光雄といった。十代目廉乗の嫡男、四郎兵衛光嘉が二十五歳の若さで病没し、後継者がなくなったので、貞享三年(一六八六)光雄二十一歳のとき、廉乗の娘とめあわされて養子となり、名を四郎兵衛光寿と改めた。その後、元禄十年(一六九七)七月二十八日、養父廉乗の隠居にともない、宗家の十一代目を相続した。三十四歳のときである。享保五年(一七二0)十一月、幕府の許可を得て法体となり、通乗と号したが、翌年の十二月二十七日には、病気のため没している。戒名は、光寿院通乗日詣居士といい、日蓮宗・妙高寺に埋葬された。十二代目は、嫡男の源之丞光幸が相続している。通乗の時代は、政治の中心が、京都から江戸に完全に移った時代であり、町人の力がだんだんと大きくなり、金の力がものをいった時代でもある。京都を中心にし、武家を対象に発展してきた後藤家彫に対し、後藤家の下彫師から身を起し、町彫の祖と称せられた横谷宗珉親子、あるいは奈良派の三作と称えられた、奈良利寿、土屋安親、杉浦乗意、および利寿の門下である浜野政随、宗珉門下の柳川直政等の、名人上手が続々と輩出した時代でもある。
このような四囲の状況のもとに、宗家の養子として選ばれた通乗は、技量も勝れていたであろうが、特に注意すべきは、通乗が時の流れを上手に受け止め、これまでの伝統を打破り、写生風を加味した作品を次第に多く造るようになったことである。しかし、この作風の変化は、通乗のときから始まったわけではなく、養父廉乗のある時期から始まっていることも見逃してはならない。

宝尽図 銘 後藤光寿(花押)

宝尽図 銘 後藤光寿(花押)

十二代 後藤光理(寿乗)

光理は十一代目通乗光寿の嫡男である。十六代光晃の記録によると、元禄二年(一六八九)の生れとなっており、幼名を亀市、のちに光幸といい、俗名は源之丞といったという。
光理は享保五年(一七二0) 十一月、父光寿が法体となり、通乗を名乗ったときに四郎兵衛を襲名し、名を光理と改めた。 十四代光守の記録によると、享保七年(一七二二)二月二十七日、幕府月番・大久保長門守殿から、通乗の跡目を相違なく下し置か れる旨の申し渡しがあったとしている。したがって、この時点で、光理は宗家の十二代目を相続したものであろう。
寛保二年(一七四二)二月九日、五十四歳で病没し、戒名は光理院寿乗日量居士といい、日蓮宗・妙高寺に埋葬された。四男二女が あって、嫡男の源之丞光成が十三代目を相続し、二男は只吉光佐、三男の吉五郎光侮は十四代目を相続し、四男の吉次郎は、江戸町人頭、館氏の養子になっている。 この時代になると、町彫の台頭がいっそう著しく、杉浦乗意、浜野政随、柳川直政、大森英昌、横谷宗与らが大いに活躍した。江戸 にはたくさんの大名屋敷があり、また多くの武士も常住していた。この頃、娘の嫁入りあるいは養子縁組等、おめでたい行事があると、 大名相互間の贈りものとして、後藤家の揃物 (十二代)が大いに利用された。後藤家では、依頼主の注文に応じて、先祖の作で、無銘 だった弁とか小柄の紋を取外し、あるいは地板にして、新しい小柄等に造り変えたり、裏に金哺をかけて、「○乗作—光理(花押)」と いった、いわゆる極め物を増産した。もちろん、とり合せ、彫足しなどの三所物も誕生し、それに伴って、たくさんの折紙も発行された。

奔馬図三所物 銘 後藤光理(花押)

奔馬図三所物 銘 後藤光理(花押)

十三代 後藤光孝(延乗)

光孝は十二代目寿乗光理の嫡男で、享保七年(一七二二)の生れである。幼名を亀市、のち光成、俗名は源之丞といった。父の死後、宗家の十三代目を相続し、名を四郎兵衛光孝と改めている。光孝には、二男三女があったというが、ことごとく早世しており、そのためか、当主の座にいたのは、寛保二年(一七四二)から天明四年(一七八四)までで、実に四十二年の長きにわたっている。
天明四年(一七八四)九月十八日、六十三歳で病没した。戒名は、光孝院延乗日実居士といい、日蓮宗・妙高寺に埋葬されている。妻は、御坊主・松井某の娘で、二男三女は皆早世したため、生前に弟の光唇を養子に迎えている。没後この光唇が十四代目を相続した。この時代の将軍は、九代徳川家重、十代家治であったが、政治の実権を握っていたのは、田沼意次・意知親子であり、「わいろ政治」で悪評が高く、下級武士と農民の生活は苦しく、町人の力がますます強くなった時代でもある。時代の流れを反映してか、贈り物によって立身出世をしようとか、金儲けをたくらむ輩が多く、また一般的にも贈物のはやった時代でもある。したがって、先代光理の時よりもいっそう多くの極め物が製作されている。町彫諸工では、一宮長常、津尋甫、遅塚久則、大森英秀、尾崎直政、柳川直光、浜野矩随、岩本昆寛、赤城軒元孚等が活躍し、一段と隆盛をきわめている。作風そのものは、先代光理とほとんど変りないが、ただ、揃金具とか鐔・縁頭の作が、いままでよりも多くなっている。折紙の発行も、後藤各代で最も多いのがこの光孝である。

奔馬図小柄 銘 後藤光孝(花押)

奔馬図小柄 銘 後藤光孝(花押)

十四代 後藤光守(桂乗)

光守は十二代目寿乗光理の三男で、実名は光唇、俗名は吉五郎といい、寛保元年(一七四一)の生れである。十三代目の当主、光孝に後継者がなかったので、兄である光孝の養子となり、その没後、十四代目を相続し、名を四郎兵衛光守と改めた。
天明六年(一七八六)光守が書残した『後藤氏明細書』によると「明和七寅年(一七七〇)十二月、私の養父延乗が、弟の続きである私を、養子にしたいと幕府に願い出たところ、翌明和八年(一七七一)三月十九日、願いのとおり許可する旨、水野壱岐守殿から、高尾孫兵衛殿を通じて申し渡しがあった」と記しており、この間の事情を知ることができる。
また、孫の光晃の記録によれば、享和四年(一八〇四)正月四日、光守は六十四歳で病没したとなっている。戒名は、光守院桂乗日耀居士といい、日蓮宗・妙高寺に埋葬されている。四男一女があり、嫡男の源之丞光美が宗家の十五代目を相続し、二男の勇五郎光求は、京都で分銅役所預りを勤め、三男の市衛門正興は江戸町人頭・館氏の養子となり、四男勝五郎光貞は文政五年(一八二二)八月七日早世し、乗雲と諡号された。光守は、若年の頃から装剣具を製作し、また長生きしたにもかかわらず、自身銘入りの作品が非常に少ないことに注意すべきである。

亀図三所物 銘 後藤光守(花押)

亀図三所物 銘 後藤光守(花押)

十五代 後藤光美(真乗)

光美は十四代目桂乗光守の嫡男であり、初名を亀市、俗名は源之丞といい、安永九年(一七八0)二月十六日の生れで、後に後藤宗家の十五代目を継いでいる。
享和四年(一八0四)正月四日、先代光守が六十四歳で病没したので、この年(文化元年)の六月三日、源之丞は名を四郎兵衛光美と改め、宗家の十五代目を相続し、江戸城の白書院において、襲名披露が行なわれた。光美は、天保十四年(一八四三)六月七日、六十四歳で病没した。戒名は、光美院真乗日明居士であり、日蓮宗・妙高寺に埋葬された。五男三女があったが、兄たちは早世し、四男の源之丞光年が宗家の十六代目を相続した。光美は、後藤各代の中では最も技術が劣るとされている。しかしながら、世上ままみるところであるが、なかなかの名作も残されている。

牽牛織女図緣頭 銘 後藤光美(花押)

牽牛織女図緣頭 銘 後藤光美(花押)

十六代 後藤光晃(方乗)

光晃は、文化十三年(一八一六)八月三日の生れで、十五代目真乗光美の四男である。実名は光年、俗名は新二郎、のち源之丞といった。天保六年(一八三五)七月、父の光美が五十六歳で隠居したので、同年の七月に家督を相続し、名を四郎兵衛光晃と改め、後藤宗家の十六代目となった。
宗家に保存されている光晃の手控えによると、天保八年(一八三七)幕命によって、天保五両判を製造したとの記録があり、弘化二年(一八四五)十月十二日に、金座役・後藤三右衛門の不正が発覚し、死罪となった事件が発生している。そのため、光晃の嫡男・吉五郎が、わずか十二歳で金座役を命ぜられている。光晃には、次男・春学があったが、嘉永元年(一八四八)に病没してしまい、宗家の十七代目となるべき後継者を失ってしまった。しかし、光晃は年齢も若かったので、後継者を定めずにいたところ、突然病気となり、安政三年(一八五六)六月二十二日、四十一歳の若さで病没した。この時、別家久乗光覧の次男・常太郎光平を後継者にと遺言して死んだという。ところが、この後継者問題については、一族の間から異議が出されて定まらず、安政五年(一八五八)の三月、後藤一乗の仲裁によって、ようやく事の決着がついている。戒名は、光晃院方乗日円居士といい、浅草橋場町にあった、日蓮宗・妙高寺に埋葬された。長男と次男は早世している。光晃は、十二代目光理以降の各代にあっては、最も技価が勝れ、相当数の名作も残されている。また、極め物に対しても、納得の出来るものが多く残されているし、揃金具も数点現存している。

野猪図小柄 銘 後藤光晃(花押)

野猪図小柄 銘 後藤光晃(花押)

十七代 後藤光則(典乗)

光則は、天保六年(一八三五)の生れで、別家・七郎右衛門家の五代目、久乗光覧の次男である。伯父に名工一乗がおり、初名を常太郎光平といった。嘉永五年(一八五二)常太郎十八歳のとき、京都から江戸に出て、新三郎光庸、半左衛門光正とともに、宗家において修業をしている。
安政三年(一八五六)の六月、常太郎光平が二十三歳の時、当主でもあり師匠でもある光晃が、病にたおれて突然に死去した。四十一歳の若さである。嫡男の吉五郎は、この時二十三歳であったが、弘化二年(一八四五)幕命によって、金座役を勤めていたので、宗家十七代目を相続する後継者がいなかった。光晃はそのことを心配して、現在弟子として修業している常太郎光平を後継者にするようにと遺言して死んだのであるが、一族の間から異議が出されている。宗家の跡目がなかなか決らず、一年七か月もの間、空白の期間があった。結果的には、源実光文が記しているように、後藤一乗の調停により、常太郎光平が宗家の十七代目を相続し、名を四郎兵衛光則と改めた。二十四歳の時である。
万延元年(一八六0)には、大判吹替造立を勉むとの記録がある。このとき鋳造された大判は、これまでの大判に比較すると、大変見劣りのするもので、形は小さく、目方は四十四匁から三十分に減じられており、江戸幕府の窮状が察せられる。数量は一七、○九七枚で、貨幣の歴史からみると、万延大判がこれにあたる。光則自筆の記録によると、明治二年(一八六九)十一月、名を四郎と改めたとしている。そして明治十二年(一八七九)六月五日、四十五歳の若さで病没した。戒名は、光則院典乗日準居士といい、日蓮宗・妙高寺に埋葬された。この代で明治維新となり、始祖・祐乗以来、連綿として十七代、四百年余り繁栄した名門後藤家も、最後の幕を閉じることになった。

秋草・虫図三所物 銘 後藤光則(花押)

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