加賀後藤派

 

加賀後藤派(かがごとうは)

今日、加賀後藤派と極められている作は、三所物を初めとして、縁頭、鐔などがみられるが、これらの作のほとんどは無銘である。これは、同派の金工の多くが、加賀前田家の抱え工であり、主家のために製作したものが多かったためであろうと推測されている。
後藤宗家七代の後藤顕乗および九代の程乗に加え、一門からは覚乗、悦乗、演乗等が前田家に召されたことから、前田家の庇護もあり加賀金工は大いに繁栄し、同派の作には優れた作も多くみられる。同派の特徴としては、地がねは赤銅地が最も多く、他に四分一、朧銀地などがあり、鉄地や、真鍮、素銅などの作はほぼ見られない。同派の作風としては、魚子地に据文色絵を施したやや濃厚なもの、平象嵌を施してその上に一面に魚子を蒔き、魚子地の内に象嵌の図様を現わしたもの、および象嵌に毛彫を施したものなど、大別して三様がかぞえられる。

同派を代表する金工としては、まず下記の三工が挙げられる。

後藤顕乗(ごとうけんじょう)

後藤顕乗は、宗家五代徳乗の子として天正十四年に生まれた。初めは正継と切り、後に顕乗へと改めた。通称は、源一郎或いは富三郎と称し、後に理兵衛と名乗った。実兄である宗家六代栄乗が、元和三年に没した時、その長男である光重 (後の宗家八代即乗)がまだ年少であった為、光継は一門の推挙により甥光重の後見をする事となり、その際に宗家七代を継承した。因みに、顕乗以後の後藤宗家は、九代即乗(顕乗の次男)を初めとして、八代即乗と十代廉乗(即乗の子、通乗の養父)の親子を除き、十一代通乗(顕乗の五男仙乗の子)から十六代方乗に至るまで、そのほとんどが顕乗の子孫である 。
加賀前田家は、寛永年間に多くの金工を金沢へと招いたが、顕乗もそのうちの一人であり、顕乗は後藤宗家の家督を八代即乗に譲った後に、従兄弟である覚乗と、隔年交替の条件で金沢へと出張し、顕乗の実子光昌 (後の宗家九代程乗)を中心とした彼らの門人たちが後に加賀後藤と呼称される一派を形成し、加賀金工群の隆盛に尽力した。
また、顕乗は加賀金沢藩三代藩主前田利常に協力して、散失していた初代宗家後藤祐乗の作を集め、その質量共に日本一といっても過言ではない珠玉の祐乗コレクションは、現在も前田家の文化財を管理する前田育徳会が所蔵している。

後藤覚乗(ごとうかくじょう)

顕乗と共に加賀後藤を牽引した覚乗は、通称を勘兵衛と称し、後藤宗家五代徳乗の弟長乗の次男として、天正十七年に京都で生まれた。父長乗から始まるこの家は、徳乗系の下後藤に対して、上後藤と呼ばれて隆盛を極めた。覚乗は、寛永頃から加賀前田家から百五十石の扶持を支給され、京都と金沢を往復し、前田家の装剣用具の製作はもとより財政面の保護も含めて優遇された。
以後、覚乗の通称に因んで勘兵衛家と呼ばれた同家は明治期まで代々にわたって前田家に仕えた。

後藤程乗(ごとうていじょう)

後藤宗家九代程乗は、慶長八年に顕乗の次男として京都で生まれ、名を光昌といい、 父と同様に理兵衛を通称としている。程乗は、覚乗の誘いや父の技の継承という意味もあって、加賀前田家へ出仕し、前田家からは三十人扶持を支給され、隔年で金沢へおもむき、藩の金工への彫金指導に当った。覚乗の死後は、覚乗の子演乗が若年であったため、勘兵衛家の後見役を前田家から命じられている。また、即乗は加賀金沢藩三代藩主前田利常より厚い信頼を受け、現在兼六園がある金沢郊外の蓮池に屋敷を賜わっている。寛永八年に、八代宗家即乗が没したが、その子光侶(後の宗家十代廉乗)が幼かったことから、一門からの要請で宗家九代として後藤家の家督を継ぎ、光侶の後見を行った。

生花・茶釜図鐔 無銘 加賀後藤

生花・茶釜図鐔 無銘 加賀後藤

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